Stellarion

星楔のヴァリアシオン

幻蝶は星、想花は風

 蒼星祈聖界クロムウェル。数多のある世界の中からそう呼ばれるもののに祝福の帳が橋掛ける。
 人も、人ではないものも、みんなして天を仰いだことであろう。
 静寂の青に見慣れない翠や紫の帯が揺らめいてはこの世界に告げているのだ。

「───この世界に、客人が来る」

 そう、誰もがその祝福とも言える“証”を見ては思ったのだ。
 人も、人ではないものも、みんなしてそう思うもの、なのだ。


 みずの、なかのような。ふしぎなかんかく。

 寂しい、色。孤独の色にも見える碧の奥から、声が聞こえる。
 誰の声なのかも今は知りもしないが、それはなんだが自分とよく似ていた、気がした。
 泣いているのかい、なんて聞いても声は返すことはなく、姿をこちらに現すこともない。
 ただただ、誰かを責めるわけでもなく。ただただ、誰かを嘆くわけでもなく。

 その叫びのような、刹那の声は静寂の碧の中で、悲壮を奏でたのだ。
 ───ただこの世界で、生きることだけを赦されたい。

 聞こえた言葉の刹那に目の前の景色なんてものは、まるで蒼海のように震えた。
 波紋のように遠ざかる意識の奥で、誰かが名を呼ぶような気がした、のだ。

 がたごと、馬車の音。白銀の髪がそれにあわせて揺らめく。
 見覚えのある視界。狭い空間だ。
 ああ、寝てたのだなとメルセウスは理解した。揺れる景色が現実へと引き戻したのだ。
 小さな窓を覗けば、広がる天色と紺碧の色。
 ふたつの色は決して交わることはなく、世界に境界線なんて描いているものだ。

 境界線を目にして、まだ夢の残滓がまだ胸の奥でくすぶって思わず「誰だったのだろう」と思わざるを得なかったりなんかも。
 そもそも、メルセウスにとって夢なんて見るのも久しかったもので。
 そんなものを夢にすることなぞもうなかったものだと、メルセウスは思っていたのだが。

「……生きることを赦されたい、か」

 がたごと。その言葉は馬車の音によってメルセウスにしか届くことはない。
 ぼんやり、メルセウスははっきりとしなくなった記憶の輪郭を浮かべては、静かにそれを振り払ったりもした。
 あまり思い出したくもない過去だ。今更そんなこと考えなくてもいい。そう自分に言い聞かせて。

「……おや、お目覚めで?」

 そうしているうちにメルセウスが目覚めたことに気付いたのか、前方から老いた御者の声がメルセウスに届く。
 メルセウスは軽く頷き、返すように窓を開けた。潮の香りが鼻をくすぐっては海の気配を感じさせる。

「ああ、うん。もうすぐ着くのかい?」
「ええ、あと半刻もすりゃ、アスルアス聖国の門が見えますよ」

 老御者は手綱を軽く引きながら笑う。
 今回の世界はずいぶんと友好的な方だな、なんてメルセウスは思ったりも。
 ───幻蝶の魔術師とも呼ばれる彼、メルセウスはこの世界の住人ではなく。まさに“来訪者”なのだ。

 幾度も、幾度も世界を渡り歩いてきた彼。今のような優しい態度なんてものじゃないものも、もちろん見てきた。

「もしや、“異世界からの来訪者”ですかい? それだったらこの世界に来たのも運がいい」
「この世界は花と祈りの女神であるアルティリア様の祝福がある世界ですものでね」
「みぃんなアルティリア様が歓迎するお客さんなら、歓迎することでしょう」

 どうして知っているんだ、とも言える言葉。その言葉を出す前に、老御者は上機嫌そうになんかもした。

「そりゃあ昨日、“祝福の帳”───オーロラが見えましたからね。季節外れのオーロラは異世界からの来訪者が来た証だとこの世界の住人は思っておりますぜ」
「へぇ、そういえばアスルアス聖国もこの世界でも最も祝福された国だってね」
「ははっ、そりゃ間違いねぇ。女神アルティリア様の御加護がある地ですからな。この国はずっと星の光に守られてる。……ま、守られすぎて、外から見りゃ眩しすぎるくらいに」

 眩しすぎる。その言葉と共にメルセウスは老御者から不快そうにする感情を抱いたことを感じ取って。
 ……ああ、何か“ワケあり”か、とも同時に察したのだ。

「ええ、あんたもすぐわかりますよ。海の都とも呼ばれるアスルアス聖国には、陰に潜む厄介なものも多く棲んでいる。……そいつらは幻獣種げんじゅうしゅ。あんた、水場には近寄らない方がいい、特に美しい容姿を持ったのが近くにいたらね」
「幻獣種には、昔から多くの人が困らされてきましてねぇ……うちの従兄弟も可哀想なことに幻獣種によって……って、おっと。これはお客さんに話すことじゃなかったな」

 ぴりぴりと、強い感情にメルセウスは思わず目を細める。こんなにも嫌悪の感情を抱く者なのか、とも。
 それにしたって、何かがおかしい。異世界からの住人すらも受け入れるような人間が、元からいた住人のことをこんなにも。
 老御者から悲しみを感じ取れないにするに───この人は犠牲者ではない。

 だから、そんなにも幻獣種という存在に強い感情を抱かなくていいはずなのだが。

 先程の夢を、ふと思い出した。
 ───この世界で生きることを赦されたい。
 その言葉は、もしかすると。
 まるで、現実に幻が混ざったような、そんな違和感。

 「……この世界には、まだ知らないものが多そうだ」
 「なんですって?」

 メルセウスは微笑みを浮かべてはなんでもない、と返した。
 海と空の境界は、相変わらず溶け合うことなく淡く揺れている。

 がたごと、流れるふたつの色と共に視界に入る、そびえ立つ白の色。

 この世界、星の祝福を施されている蒼星祈聖界クロムウェル。
 さて、この世界はどんなものなのか。メルセウスは近付きつつある景色を金の瞳に写し思う。
 メルセウスがクロムウェルに来たのも、特に理由があるわけではない。
 幾度の世界を渡り歩く旅路に、ちょうどクロムウェルがあった、ただそれだけのこと。それだけのことなのだ。

 そうして、今向かっている先が、クロムウェルでは主要国、とされているアスルアス聖国、という国。
 海の近くにあり、そしてこの世界の神──誓花神とも呼ばれるアルティリアという女神の祝福が最も強いとされていて。
 魔法化学が特に発展しており、星が特に綺麗に見える国、でもあるそうな。
 しかし、海の都でもあるアスルアス聖国には、同時に“幻獣種”という種族も多くいる。
 それが、今までにメルセウスが聞いたアスルアス聖国、であったが、妙な違和感を覚える、それは───。

 ごとん。大きな揺れが、それっきり。刹那の静寂。

 ああ、着いたのだなと、それでメルセウスは察する。声をかけられれば、それに声で応じたりなんかも。
 お代を渡して、いざ目の前の光景を視界に入れる。
 白。この世界では“祝福を与える星の色”として有難い色なんだそう。
 白が並ぶのを見て、メルセウスはそんなことを、思い出す。
 
 この世界は、本当に“祝福”に満ちているのか。
 それとも、祝福の名を借りた何かに覆われているのか。
 その問いは、まだ形を持たない。だけれど。
 けれど確かに、この瞬間から何かが始まっていた。


「──さて、この世界はどんな物語を見せてくれるのかな」
 メルセウスという魔術師がこの世界での第一歩を始めた瞬間であった。
 誰も知らない、けれども確かにあった物語。